私の一時帰国記 〜狂言から見るアメリカと日本の「笑い」のセンスの違いについて〜

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Yuko M

私はクリスマス休暇を利用し、日本に一時帰国をしました。二週間の滞在は友人や家族と過ごすのに忙しく、また東京の町並みが変わったことに驚く日々でした。しかし、今回の日本の滞在で特筆すべきトピックのひとつに、日本の伝統芸能である『狂言』を観たことがあります。今回はその体験をもとに、アメリカ生活を経て気付いた『笑い』の文化の違いについて挙げてみたいと思います。

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狂言鑑賞の目的

私は日本に一時帰国をした際はぜひ、狂言を鑑賞してみたいと考えておりました。狂言は小学生の時分、学校の社会科見学か何かで見聞した記憶がうっすらある程度で、ほとんど観たことはないといって構わないでしょう。普段、アメリカに在住し、アメリカの文化に身を浸している私にとって、日本に帰った際、日本の文化に触れてみることは一興です。

また、以前の記事「アメリカでボケ・ツッコミは通用しない!?アメリカと日本の「笑い」のセンスの違い」で書かせていただきましたが、アメリカでパートタイムコメディアンである私はなぜ、自分がボケ・ツッコミを周囲に期待してしまうのか、実に不思議でした。

アメリカでもボケ・ツッコミが存在しないわけでもないのですが、様式美として確立しているわけではないようです。実際、日本をよく知る日系アメリカ人の友人に相談しても、適切な訳語が存在しないようです。そこで今回の目的は私がボケツッコミを期待してしまうのは、本当に日本の文化出身だからか、確かめるために鑑賞に行きました。

狂言 鑑賞当日

インターネットで検索して見ると、「狂言わらんべ」と銘打った公演が目に止まり、公演場所のアクセスやタイミングが良かったので、この公演に飛びつきました。当日、公演場所に到着すると、意外なことに気づきました。観客に若い世代の人が多いことです。私は漠然と当日は、お年寄りの中で囲まれて鑑賞することになると考えていたのですが、意外や意外、20代とお見受けする方もいらっしゃいます。

定時になり、舞台に私と同世代と思わしき男性が現れました。パンフレットからすると、大蔵家のご長男である大蔵千太郎氏であるに違いありません。氏は狂言に関する簡単な紹介を始め、セリフが室町時代の言葉であること、人がいなくなったら、芝居がおしまいであること、狂言の「すり足」について、今日はふたつの芝居をやることなどを紹介し、狂言に馴染みの薄い観客の緊張をほりとぐします。

私は大蔵千太郎氏がセリフが室町時代の日本語であるため、初めは慣れるのに時間がかかるとおっしゃられたことに、大変興味を覚えました。実はイギリスやアメリカでシェークスピアなどの演劇を観ても同様に、英語は古い表現であることが多いのです。日本を離れて久しい自分にすぐに慣れるかどうか不安でしたが、氏の「英語よりはカンタンです!」という言葉に私は大笑いをしてしまいました。

狂言わらんべ ストーリーについて

まずはひとつめの演目、「文相撲」が始まりました。ストーリーは、召使を雇おうとした大名が従者の太郎冠者にリクルートを頼みます。ひとり適当な男が見つかったのですが、その男。相撲が得意とのこと。相撲好きの大名はぜひにとその男と相撲を取ってみるのですが、その男の故郷からの伝来の必殺技によって完敗。それではと相撲の解説書でカンニングをして対処を試みるのですが、ここはコメディ。あえなく返り討ちに遭い、最後は腹いせに相撲が取れない太郎冠者にムリヤリ相撲をけしかけ、大名は勝利を納めます。

ふたつめの演目は、「素襖落」。伊勢参りに行くことになった主人が、一緒にいくかどうか聞くために伯父のところに太郎冠者遣いに出します。現代のように電話のない時代ですから、用事を聞くために遣いの者を送るわけです。伯父は太郎冠者を歓迎。酒を振る舞い、プレゼントとして素襖(着物)まで持たせてやります。太郎冠者は主人の元に戻ってくるのですが、グデングデンに酔っ払った上に、伯父が伊勢に行くのか行かないのかもまともに伝えられず、くわえてプレゼントの着物まで見つかり・・・ という典型的なコメディの展開になります。

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狂言を観た私の所感

以前読んだ本の中で『狂言は脚本がしっかりしている』といっていたのを鑑賞中に思い出しました。ふたつの演目ともに落ちがしっかりと付いており、コメディのストーリーとしては完成度が高いです。また相撲に負けた大名がウップンを晴らすために、太郎冠者とムリヤリ相撲をとったり、勧められた酒をイヤイヤそれはといいながら、飲み干すところも人間の本質が出ていて、時代を超えて、笑いの本質を見るような思いがいたしました。

実はアメリカのコメディの授業でも、こういった人間の可笑しい本質を描写するようによく指導されます。飲んではいけない酒を飲んで酔っ払う、自分の失態をごまかすためのヘタな言い訳、奥さんのグチを言いながら離婚しない夫など、人間の本質をつけば、東西を問わず、笑いを生み出せるのかもしれません。

アメリカ人と日本人では笑いのツボが違う?

鑑賞をしていて気づいたのですが、やはり観客が笑うタイミングが日米で違うようです。アメリカでは演者が面白いことをいった瞬間に笑いが起きるのが常ですが、日本の観客はツッコミがあったときに笑うので、ワンテンポずれるのです。今回の狂言でも、トンチンカンな行動をする大名に対して、太郎冠者がその奇天烈ぶりを指摘(ツッコミ)すると笑いが起きていました。

日本の観客はコメディを見ていても、無意識にツッコミを待っているのかもしれません。このボケ・ツッコミの様式美を備える狂言をアメリカ人が観たら、どのタイミングで笑いが起きるのか、私には大変興味がございます。在米経験の長い、私の日本人の友人は皆一様に、「アメリカ人の笑いのセンスが違う」ことに同意しますが、その一因にツッコミを待ってしまう私達の姿勢もあるのかもしれません。

ただし、今回残念だったのは、なぜ、日本のコメディに「ボケ」「ツッコミ」の2軸が存在するのか、理由ははっきりわからなかったことです。私は海外で生活するまで、ボケ・ツッコミは当然と思っていましたが、海外に住むことによって自分の中の日本文化を返って意識することになりました。

アメリカのコメディと比べて

海外で生活をしていると時折、自分がなぜ、こういった思考をしているのか、自問自答することがございます。私の場合、「ボケ」と「ツッコミ」がそうでしたし、その疑問が狂言に興味を持たせる発端になりました。THE RYUGAKUのサイトを閲覧されている読者の方には海外で生活されている方も多いでしょうし、これから海外に行かれる方も数多いと思います。海外で生活をしていて徐々に気づくのは、自分の中にある日本文化です。これは日本で普通に生活している分にはなかなか気づきません。

アメリカに住むようになると現地のアメリカ人の友人と映画を観に行ったりすることがでてくると思います。おそらくコメディの映画を観ても、アメリカ文化に慣れないうちは一緒に笑うことはできないでしょう。英語の表現、隠喩、歴史、文化的な要素、コメディには数多くの要素が凝縮されていることが多く、他の文化圏から来た人間には、理解しにくいことが多いからです。

私もアメリカ人の女の子とデートする際、お互いをよく知らないうちは意図的にコメディの映画を観ることは避けています。なぜなら、笑いのセンスは個人によっても違い、また往々にしてコメディは理解が非常に難しいので一緒に笑えず、かえって気まずい雰囲気になる可能性もあるからです。

またアメリカのコメディはボケ・ツッコミで成り立っている傾向が少ないので、無意識にツッコミを待っていると周囲が笑っているのに、自分だけ笑わないという寂しいことになりかねません。また映画やテレビのコメディを観ている最中は、周囲になぜ、面白いのか尋ねることもできませんし、終わってしまえば皆、なぜ面白かったのか忘れてしまうことも多いので、なかなかコメディの理解に繋がることが難しいのです。

しかしアメリカではユーモアを交えながらスピーチをしたり、デートをするのは半ば当然ですので、これから渡米なさる方は少しずつでもいいですから、コメディに慣れていって欲しいです。まずはボケ・ツッコミ日本由来ということで、ツッコミを期待しない所存で望みましょう。

まとめ

今回は久しぶりの日本で、伝統芸能を楽しめ大変充実した時間を過ごせました。これから海外生活を体験される読者の方も日本にいる間にできるだけ、多くの日本文化に触れてから、離日されることをお勧めします。

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この記事を書いた人

命かげろう
命かげろう

初めまして!日本の大学を卒業した後、米国の大学院に留学し漂流し続けること10数年。今年で米国生活16年目になります。お笑い好きの40男が加齢臭を漂わしながら、ミシガン州デトロイト近郊から海外生活と留学の知恵や経験をお届けします。

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