留学におけるアイデンティティの葛藤-場の倫理とアイデンティティ
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海外在住の読者の方、留学経験者の方にとって興味あるトピックかと推測し、前回の「海外で日本人同士の人間関係を上手く乗り切るには?-場の倫理と個の倫理」の記事を書きました。想像以上に反響があったため、今回は調子に乗って、続編を書こうと思います。「場の倫理とアイデンティティ」についてです。
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場の倫理とアイデンティティ
前回の記事『海外で日本人同士の人間関係を上手く乗り切るには?-場の倫理と個の倫理』では、海外生活での人間関係をスムーズにするには「場の倫理」と「個の倫理」がキーワードだと書きましたが、日本人の持つ「場の倫理」は、私達のアインディティの形成に深く関係していると、私は見ています。
考えてみれば当然でして、場の平衡感覚を第一にするのが場の倫理ですから、自然と場の中で生活する人たちは、周囲の状況を察しながら、平衡感覚を身につけているはずです。
ところが留学や海外生活をするため、個の倫理の環境に身をおいた場合、どういったことが起きるでしょうか。そこにはきっと、アイデンティティの変化が訪れるはずです。まさに、「自分が自分でなくなっていく事態」といってもいいかもしれません。
不安で一杯の留学
心理学者の鑪幹八郎氏は、著書「アイデンティティの心理学」において、39歳という海外経験を初体験するには熟年ともいうべき年齢でフランスに留学した哲学者、森有正氏の例を引き合いに出しています。
森有正はプロテスタントの牧師である父のもと、フランス語に親しみ、初めて読んだ本が聖書という西洋文化に浸かった幼少期を送ります。そして東京大学フランス語科を卒業。その後、同大の助教授まで上り詰め、大学教授の地位が約束されるところまで来ます。
その時に訪れたのが、国費海外留学の話。本人は気乗りしませんが、1950年の当時、留学は貴重なことでしたから、周囲の勧めもあり留学を決意します。しかし、その裏には安定した生活を離れる、一種の怖さがあったことを本人は後に認めています。
私の経験から言っても、アメリカ留学の当初は大きな恐怖感に満ちていました。日本の大学を卒業し、そのまま無難に就職をした方が良いのではないか、16年前の日本は特に新卒採用がメインでしたから、私のように大学を卒業した後、留学をし万一退学になった場合、日本に就職先があるのか。日本社会に戻れるのか。また、これから先、大学院の勉強についていけるのか。そのまま日本に残っていれば、留学をしたいという思いを抱えたままでも、安定した生活を送れたのではないか。
アイデンティティの抵抗
鑪氏はこの際、アイデンティティの抵抗には、三択が考えられるといっています。
1.抜け殻になる
2.古い自分のアイデンティティにすがる
3.新しい自分のアインデンティティの確立に勤しむ
結局、森氏は三番目の選択肢を選ぶことになります。三番目の選択肢を選んだ森氏は、就職先の東大を辞職。ここで第二の恐怖が本人を襲います。フランスに残ったとしても、天涯孤独の身でのフランス、それも自分を必要としていない場所での出発です。大きな孤独と隣合わせですが、日本にいた頃には味わったことのない肉体的な試練に大きな歓びを感じます。
この箇所は海外経験をしたことのない人には分かりにくいかもしれません。海外での生活は、家族もなく身寄りもないので、文字通り、ひとりで現地の生活に溶け込んでいかなければいけません。これは日本という生まれ育った国ではあまり感じない感覚です。なぜなら、日本で生まれ育ち、なんとなく周囲に合わせ大学に行き、終身雇用つきの就職をしたりすれば、それほどアインディティの葛藤に巡り合わないからです。
なぜ、私がこの森氏の留学に注目するのかというと、私は時に、自分の留学、その後のアメリカでの生活は一切価値がないのではないかという、不安感に襲われるからです。以前、私は一切海外での経験、体験に価値を置かない方にお会いしたことがございます。
「英語ができて、なんぼのもんじゃい。日本人は日本語で十分ではないか。海外の経験と言ったって日本で日本の生活に満足すべきなのが、日本人ではないのか。海外にいたからといって何になる。単なる自己満足なんじゃないのか。アメリカ海外生活に何か意味があるんか?」
実際、私は英語がしゃべれるからといってもNativeではない中途半端なレベルですから、意味がないといえば意味がないといえるかもしれません。また日本に残って就職をしたとしても結局は苦労があるわけですから、身寄りのないアメリカでする苦労があえて必要ともいえません。
実際、大学卒業時に、同級生から「へー、りゅーがく? いいねラクで。こっちは就職活動が大変で・・・」といった、冷たい視線を浴びせられたことは一度や二度のことではありませんでした。「なんで勉強が終わったのに、まだアメリカに居るんだ?」という質問に回答するのも一苦労です。なぜなら、海外で生活をしたことのない人たちに、ひとりで海外で生活を切り開いていく心的状況を述べて、理解や同意を得ていくのは生易しい作業ではないからです。
森氏はこの天涯孤独の生活の中で得られていくものを、「経験」という言葉に集約しています。この経験は自分の肉体を通して語らなければいけないといいます。
他人が観て「素晴らしい」と思った名画や名所、美術品をなんとなく同調して「素晴らしい」と思うのではなく、自分の経験を通して「選択」をしていく。この選択は長い時間をかけて、森氏の新しいアンディティティになっていったに違いありません。
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He is a boy:「彼は男の子だ」≠「彼は男の子でございます」
その森氏が、場に関して面白い考察を残しています。日本語では場において、”He is a boy”という一文を、「彼は男の子だ」とも、「彼は男の子でございます」と訳出できるところに注目。意味的には同じですが、表現がぜんぜん違うと森氏は主張します。
単純に敬語の問題ともいえますが、日本語の話し言葉では、 話し相手と自分との「関係」を切り離して話すことはできないのです。例えば、「彼は男の子です」と上司にいっても、「〜だよ」と語尾を変えて伝えることはご法度なように、相手との関係性が表現に関して大きな役割を担います。
個人が自然と対峙するように他人と対峙する欧米とは違い、日本では他人との関係性をなしに自分を語ることができないゆえ、他人と自分の区分が不明瞭になるといっています。よって、日本の「場」では往々にして、リーダーは自己主張をしない場の世話役に徹することになります。
「長」と肩書に付く人は、人の話を聞くタイプの人が多く、場の雰囲気を維持し、平衡感覚の保持を目的としています。多くの識者が指摘している通り(例:小林由美著「超・格差社会アメリカの真実 」)、アメリカのリーダーは集団に目標を伝え、引っ張っていくのを宿命としているのとは大違いです。ここに大きな「場」におけるリーダー像の違いがあるわけです。
実際、私の勤める日系会社でも、日本からの社長はそれほど社員全員に対し発言を致しません(しかしそれは英語が単純に苦手だからではありません)。 特に私の部署は個々の従業員にJob Descriptionがないことなど、日本の場の性質を大きく受け継いでいます。
通常アメリカでは社員はひとりひとり、Job Descriptionをもらい自分の責任が明確にされますが、日本の会社だと入社後に人事部から指定された部署に配属され、その部署での雰囲気を察し、自分の責任を肌で感じていくことになります。
日本社会に潜む甘え
留学では、予定された人生コースを歩むアイデンティから、より個人を意識し、自分の人生を選択していくアイデンティティに直面することになります。この「選択」というキーワードから想起されるのが、土居健郎氏の「甘えの構造」です。
土居氏はアメリカ留学の際、他人の家を訪問すると、いちいち酒は何がいいか、コーヒーか紅茶か、クリームは?砂糖は?など「選択」を迫られることに大きな衝撃を受けます。
お茶を提供された際、”Thank you” ではなく、”I am sorry” と謝ってしまう自分に、場の中で相手に手数をかけて申し訳ないという心理が隠されていることに気づきます。
アメリカ人のよくいう、”Please help yourself” もどこか突き放したようなニュアンスが鼻をつき、氏を不快にしたといいます。そして、日本社会に潜む、「甘え」の心理にたどり着くのです。
土居氏は著書で、日本社会に、「甘え」という言葉がひとつポツンと存在しているのではなく、様々な形で日本人に甘えの心理が存在していることを指摘しています。そして、土居氏も日本社会の「父」の不在を指摘していることに私は注目しました。すでに河合隼雄氏を含め、多くの識者が指摘しているように、日本社会は母性社会といわれています。(例:河合隼雄著「母性社会日本の病理」)
実際、日本語では「母屋」はメインの家屋ですが、父屋という単語はありませんし、ちゃぶ台をひっくり返す強権な父親は存在せず、日本の家庭では母親が主導権を握っていると私は見なしています。
プロテスタントの司祭(Priest)のことを ”Father” と呼ぶキリスト教社会が父性社会であることと比較して、私は非常に面白く感じているのですが、本を読む以上のアプローチがなかなかできません。なぜなら、私自身キリスト教徒ではないため、実生活にキリスト教が入ってくる余地がなく、アメリカにいても父性社会の経験がなかなか難しいというのが実情です。
アイデンティティの確立
前述の森有正氏は自身の新しいアイデンティティの形成の道半ばで、フランスで客死します。氏の晩年の姿は柔和かつ、他人への思いやりに満ちていたそうです。数多くの選択を経て確立されたアイデンティティには、みなぎる生の充実と深い歓びがあると、鑪幹八郎氏は説いています。
かくいう私も、THE RYUGAKUのコラムを書き始めてから、私の海外経験が初めて他人のお役に立ち始めたという充実と満足を感じ始めています。私はアメリカ留学をし自分なりに勉強をし卒業し、現地で就職をしましたが、その過程には数多くの選択から生まれた葛藤がございました。その葛藤の多くは個人的な経験であり、普通に友人と話している時でもあまり表に出すことはありません。
また、日本に生まれ、英語を母語としない私が英語を学び、アメリカ社会に適応していくためには、 英語の勉強だけでなく、人種偏見、コンプレックス、アイデンティティなどの内面的葛藤に対処せざるを得ませんでした。そのたびに、本などを読み適応していく術を培っていったのですが、蓄えた知識や経験を今まで公表する機会に恵まれませんでした。
しかし、このTHE RYUGAKUでのコラムを書き始めて、私の書く妙に理屈っぽいコラムの意外と多いView数と皆様の反響に、私は自分の経験や勉強がムダではなかったことを認識しつつあります。この歓びもきっと私のアイデンティティに取り込まれていくことでしょう。いつも私のコラムを読んでいただき、誠にありがとうございます。今後とも留学や海外で生活なさる方に役立てるような記事を投稿していく所存です。
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この記事を書いた人
初めまして!日本の大学を卒業した後、米国の大学院に留学し漂流し続けること10数年。今年で米国生活16年目になります。お笑い好きの40男が加齢臭を漂わしながら、ミシガン州デトロイト近郊から海外生活と留学の知恵や経験をお届けします。